「海を見ていた午後」に訪れた浜マーケットは昭和レトロ
根岸森林公園は、木々と芝生を渡ってきた風が芳しい。思わず深呼吸をする。日本初の元競馬場の広大な敷地の中で、点となった自分が心地よい。1本の木の下で、広げていた荷物を片付けている親子連れに声をかけた。

「その車の付いた収納カゴ、かっこいいですね」
「アウトドア用のキャリーカートです」
他のファミリーが持っているアイテムを見ては、自分たちの手持ちを増やしてきたそうだ。鈴木啓司さんと佐永子さんは、2歳4ヶ月の遥仁くんを連れて、今朝の10時からこちらでピクニックを楽しんでいた。緑の中で食べるお弁当は最高だ。親はフリスビーで、遥仁くんはシャボン玉やボールで遊んだ。

啓司さんは横浜育ちだが、佐永子さんは岐阜の隣の大垣市出身だ。
「大垣には、こんな大きな公園は1つしかないんですよ」
大都市の横浜に緑が多いのは嬉しい誤算だった。整備された緑は小さな子ども連れでも手軽に楽しめる。休みの日は自転車や車で出かけ、公園で過ごすことが多い。
話しているうちにも、遥仁くんは裸足でなだらかな丘を駆け下りて行く。大変な俊足だ。見通しがいいので姿を見失うことはないし、芝生なので転んでも怪我をしない。戻ってきた遥仁くんは、今度は自転車で器用に木の周りを回ってみせた。
「じゃあ、またね」
小さな手のバイバイに見送られて森林公園を後にした。
大通りを渡ってすぐの坂道を見下ろす位置にカフェ&レストラン「ドルフィン」はある。

ユーミンの『海を見ていた午後』に歌われた名店を、山手育ちの私は初めて訪れる。近過ぎて、逆に来る機会がなかったのだ。ユーミンファンが北海道や沖縄からも来て、曲に涙する人もいるという。こちらの「ドルフィンソーダ」を注文すると、曲を流してくれるサービスがあるのだ。

ソーダの底がエメラルドグリーンなのは、シロップではなくゼリーだった。混ぜて太めのストローでいただく。マンションからコンビナートに連なる景色の果てに海がある。歌では「ソーダ水の中を 貨物船がとおる」。その世界観を味わえる落ち着いた空間は、床が赤とグレーの綴れ織で、壁が黒い鏡面となっている。1969年の木造平屋はコンクリート打ちっぱなしの二階建てとなり、八王子から通ってきた少女は伝説の歌姫となったが、同じ詩心が、この場所には流れ続けている。
丘を降りて堀割川を渡ると、横浜市電保存館が住宅地の奥に控えている。市電が横浜を走っていた時代を知る人間は、入るなり息を呑む。7両の車両がずらりと並んでいる。1000型は昭和3年生まれの97歳。床が盛り上がっているのが特徴で、その下には台車モーターが収まっている。隣は同じ97歳の500型。こちらはブレーキやアクセルを実際に動かすことができる。足元のボタンが「フートゴング」で、踏むとチンチン電車の名称の由来となったチンチンという音がする。そう教えると、子どもたちはずっと鳴らし続けるそうだ。
触れない博物館も多い中で、保存館は実体験を提供し続けている。


以前の保存館は車両だけだったが、リニューアルして歴史展示コーナーと巨大な「ハマジオラマ」が加わった。
帰りがけの親子連れに声をかけた。金澤剛志さんと5歳の晴義くんだった。
「ボク、ここには何回来たの?」
「100回!」
「10回は来てるね」とお父さん。
子は親の鏡、剛志さん自身が電車好きなのだ。大人300円、子供100円という気軽さに、つい足が向くという。横浜出身の剛志さんは、10年を北九州で過ごし、晴義くんが3歳の時に地元横浜に戻った。最初は不安もあったが、市の財政規模が大きい分、子育てへのサポートは強かった。都会なのに公園など、公共スペースを確保していることに戻ってきて気が付いたという。

二人を見送ると、16時で閉館となった。そろそろ夕食の買い出しにと、浜マーケットへ足を伸ばした。住宅街の只中に、三角屋根のアーケードがすっぽりはまっている。ガラス越しの薄暮の中を、人が魚のように泳いでいる。

食品の「はまや」は商店街会長の高木究司さんの店だ。戦後の闇市から始まって、と商店街の由来を伺っている間にも次々と客が来る。米の価格高騰を嘆くご婦人がいた。
「もう米は下がるよ」と高木さん。
「下がるまで何食べればいいのよ」
即席の漫才になっている。
夕刻だが雑踏というほどではない。聞いてみると、午前中のほうが人が出るそうだ。高齢者が多く、病院帰りに寄ったりもする。
話を伺いつつも、多彩な惣菜の行列に目移りする。
「うちは防腐剤は一切使わないから、その日の分だけ作るんですよ」
煮豆にメンマ、おからと手を伸ばした。

高木さんによると、コロッケで有名な肉の「カネヒラ」は今日が休業。手作り焼き芋の店がそろそろ閉店、と聞いて駆け込んだ。
「焼きいも どーぞ」の店頭では小学校1年生の塁くんが宿題の最中だった。店主はお母さんの石橋恵理子さん。元銀行員だが、子どもとの時間を増やし、できるだけ近くにいたいという思いから、大胆な転職をした。お子さん2人は磯子小学校。「とにかく学校の近く」と浜マーケットを選んだ。実際に中に入ってみると、レトロな魅力以上に「品質の良さと人の良さ」で他に行けなくなった、という。磯子区役所が近く、子どもの本を多く置いた図書館があり、公園もある。子育てしやすい環境を存分に満喫している。
肝心の焼き芋をいただくことにした。
「今、焼き芋界はホクホクだけどしっとり、が流行りなんですよ」
具体的には栗かぐやという銘柄で、ねっとり系の紅はるかに迫る人気だ。食べ比べ用に2本購入した。
塁くんのお姉さんの茜ちゃんは、小学校4年生にして小説を書いているらしい。浜マーケットから文豪誕生の日は近いかもしれない。

片野青果店の前を通りかかると、店主の武さんから声がかかった。20年前に浜マーケットの取材をしたのを覚えていてくれたのだ。
65年の歴史を持つ店の、武さんは2代目。生来の野菜好きで、市場で「食べたいな」と思うものを仕入れてくる。多めに仕入れる癖があり、売り切ってしまうために「えい、やっちゃえ」と値段を下げる。時々原価以下になるそうだ。個人の自由がきくのが、個人商店の良いところ。スーパーなら売らないSサイズのそら豆も、若くて美味しければ廉価で並ぶ。
「市場通いは気持ち的に楽しいけど、体が辛くなってきました」
あと10年か20年か、動ける限りは頑張るつもりだそう。
「20年経ったら来ますから、またお会いしましょう」
再会を期してからSサイズのそら豆を買い込んだ。

魚の「伊豆屋」も80年近い老舗だ。店主の菊間仁さんの父親が戦争から帰ってきて始めた。出身が網代なので伊豆を屋号にした。近海物が多いという魚は、見た目に美しく並べられているが、それには訳があった。
「親父が中2で亡くなりまして」
以来、母が店を守ってきた。
「母はきれいに並べてましたからね」
母から子へ、美しい店頭が守られてきたわけだ。「他にはない」というサヨリを購入。夜の晩酌に思いを馳せながらマーケットを後にした。

【基本情報】
・根岸森林公園
住所:横浜市中区根岸台
URL:https://www.hama-midorinokyokai.or.jp/park/negishi/
・カフェ&レストラン ドルフィン
住所:横浜市中区根岸旭台16-1
URL:https://gc68600.gorp.jp
・横浜市電保存館
住所:横浜市磯子区滝頭3-1-53
URL:https://www.shiden.yokohama
・浜マーケット
住所:横浜市磯子区久木町20−5
URL:https://hama-market3737.com
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ライター:荻野アンナ
1956年横浜市生まれ。慶應義塾大学文学部卒。83年より3年間、ソルボンヌ大学に留学、ラブレー研究で博士号取得。89年慶應義塾大学大学院博士課程修了。以後2022年まで同大で教鞭をとり、現在名誉教授。1991年「背負い水」で第105回芥川賞、2002年『ホラ吹きアンリの冒険』で第53回読売文学賞、08年『蟹と彼と私』で第19回伊藤整文学賞を受賞。そのほかの著書に『カシス川』『老婦人マリアンヌ鈴木の部屋』など。神奈川近代文学館館長。